【解答】(2)
架空電線の垂みD、電線の単位荷重ω、径間S、張力Tの間には、
- D=ωS2/8T
という関係(公式)がありますから、これに値を代入して求めるだけです。
支持点間が180mの場合は、
- 3=1802ω/8T
支持点間が200mの場合は、
- 4=2002ω/8T’
ですから、各々の張力T・T’を求めると、
- T=1802ω/24
- T’=2002ω/32
ですから、これらの比は、
- (2002ω/32)/( 1802ω/24)≒0.926
と求まります。
teuもうすぐ3.11の大震災から丸6年経つことですし、いつか公開しようしようと思いつつそのままになっていた、八戸と仙台を三陸海岸経由で結ぶ臨時列車、リアスシーライナー号の写真や録音データを公開します。
2009年7月27日、まずは八戸まで新幹線はやて号で向かいます。今はなき200系新幹線も懐かしいです。
知人からVIEWグリーン券を頂いたので、はやて号はグリーン車に乗りました。
八戸到着後は、まず大湊線に乗車。それについてはまた別途書くかもしれません。
翌2009年7月28日、いよいよリアスシーライナーで八戸から仙台へ。八戸駅前のホテルをチェックアウトし、駅のホームに降りると、出発式典が開かれていました。
今となっては、もう三陸鉄道の車両が「仙台行き」を表示してここに登場することもあり得なくなりましたね。
8時11分、列車は走り出しました。まず、JR八戸線内をJRの列車として走ります。案内放送では、オルゴールまで鳴らすサービス。
久慈~宮古までは、三陸鉄道北リアス線です。3.11の大震災で壊滅的な被害を受けた地区の山間を縫って列車は走ります。
田老駅。こんな築堤の上にあるのに、ここまで津波は上がってきて壊滅しました。
間もなく宮古駅到着。宮古駅の駅舎そのものは津波による流失は免れましたが、市内は広範囲にわたって損壊しました。
宮古から釜石までは、JR山田線です。山田線の宮古~釜石間の津波被害は著しく、完全に廃線となるかとも思われましたが、三陸鉄道に経営が移管され、南リアス線・北リアス線が接続され一体となって鉄道による運行が継続されることになりました。
2018年度の開通を目指しているそうです。
釜石駅では、立ち食い蕎麦を食べました。地元で採れた海草がたっぷりと乗っていたのを覚えていますが、その後に訪れたときは蕎麦屋はもう無くなっていました。
釜石から盛までは、三陸鉄道南リアス線です。
綾里駅では、下りのリアスシーライナー号とすれ違います。
私が乗った上り列車は三陸鉄道の普通気動車、下り列車はJR東日本のリゾート列車で運転されていました。どうして八戸からの上りを選んだか良く覚えていませんが、リゾート車両よりも一般型の車両の方が、より地元の空気に触れることができるのと考えていたのかもしれません。
鉄道録音趣味の人は、周囲の乗客の話声などが入るのを大変嫌う傾向がある気がしますが、私は車両のモーターやエンジン、案内放送などだけではなく、周囲の雑踏、地元客の話し声、そしてある時は喧嘩(これは穏やかではありませんが…)や寝台列車の客の鼾なども旅の思い出の要素だと思っているので、その結果だったと思います。(ただ単に、VIEWグリーン券で新幹線に乗れるから、仙台で降りないで出来るだけ長く乗れる八戸にした…なんてのが真相かも知れません。笑)
盛駅からは、大船渡線に入ります。小友、陸前高田、気仙沼…と、3.11で壊滅した地区を行きます。
陸前高田駅では、JRの職員が殉死されたそうです。この方でしょうか…。
色々と思うところはありますが、このまま公開することにします。
気仙沼から前谷地までは気仙沼線です。気仙沼界隈も、3.11で壊滅しました。南気仙沼から乗ってきたおばちゃんたちの声が録音に入っていますが、このおばちゃんたちは無事だったのでしょうか。録音を聞き直すたび、当日の情景が鮮明に浮かんで涙が出てきます。
途中駅ですれ違った反対列車。このキハ48552は、津波によって脱線転覆し廃車になりました。(キハ48552で検索すると出てきます)
前谷地からは、石巻線で小牛田、そして小牛田から仙台までは東北本線です。さすがにここまで来ればだいぶ内陸地になりました。
時刻も夕方となり、日もだいぶ傾いてきました。
小牛田まで来れば、あとは松島に途中停車し、終点の仙台です。
仙台まで乗ってきた車両は、翌日朝の八戸行きとなって仙台を発車していきました。
今は無き、常磐線経由の上野行きスーパーひたちの写真も撮っていました。
三陸鉄道を経由して八戸と仙台を結ぶ「リアスシーライナー」号は、夏の数日間だけ運行される臨時列車ですし、八戸も近い場所ではありませんから、乗りに行くのも気軽にとは行きませんでした。このときは、たまたま使用期限が迫っていたVIEWグリーン券(指定席の料金でグリーン車に乗れる券)を頂いたので重い腰が上がり、乗りに行ったのだと思います。
三陸海岸は、私が乗車した2年後に大地震で壊滅的な被害を受けたわけですが、今でも沿線風景や主要駅での歓迎、ホームの特設屋台の海産物の味、そしてたまたま乗ってきた地元のおばちゃんなど、思い出しては時に涙が滲んでしまう思い出深い旅行となりました。
※念のため書いておきますが、文章・写真・音のデータなどの著作権は私にありますので、無断転載禁止です。